院長紹介

首専門の「オイヌマ式整体法」で根本改善へ

院長
生沼 秀明
Hideaki Oinuma


資格
・柔道整復師(国家資格)
・日本理学手技療法協会Aセラピスト
・分子整合医学美容食育協会 越谷支部長
・エキスパート・ファスティングマイスター
・ホームペルパー2級

Profile
1972年生まれ
越谷市立南越谷小学校卒業
越谷市立富士中学校卒業
越谷総合技術高等学校卒業
さいたま柔整専門学校卒業


「整体サロンハピエル」には、市外からもはるばる施術を受けにやって来る患者さんも多い。

そして多くの患者さんが、「先生、すごく静かで日差しがたくさん入ってきていい場所ですね」と言ってくれる。

生沼も嬉しそうに笑う。

「そうなんですよ!わたしもこの場所が大好きなんです。」

経営していくには、駅の近くや大通りに面した方が人目について当然いいだろう。


しかし、生沼は逆をいく。

施術を受けにくる患者さんは日々ストレスを抱えていて、自律神経を乱している方も多いので、少しでも落ち着く、癒される空間にこだわっている。

生沼は「患者さんの人生をゆたかにすること」を考え行動する。

この考えに至ったこの男の原点は、一体どこにあるのか。

幼少期

1972年。生沼は越谷市で生まれ育った。

家族は両親、そして双子の兄(3分違い)と弟の5人家族。

小さい頃から人見知りが激しく、引っ込み思案な子供だった。

なので友達ができるまで、ものすごく相手を観察して、どんな人かを知るまでは心を開けない、そんな子供だった。

小学校1年から父親の影響を受けて、地元の少年野球チームに入る。

小、中、高とずっと野球を続けてきたおかげで、体力や忍耐力などはついたが、人とのコミュニケーションがずっと苦手なまま過ごしてきた。

勉強も苦手だった生沼は、高校卒業後にディーラーで自動車整備士の仕事についた。

友人がトヨタにしたので、日産!!って感じだったそうだ。

「当時、特にやりたことがなかったんですよね」と話す生沼。

21歳での出来事

そんな生沼に、21歳の時に大きな出来事がおこる。

当時つき合っていた彼女との間に子供ができたのだ。

父親からぶん殴られ、相手の母親からも会ってもらえないほどの状況に陥ったが、どうしても結婚したい意志を伝え続け、結婚する。

生まれてくるお子さんと奥さんのために
「絶対に幸せにする!!」と誓ったという生沼。

が、当時の給料が手取りで13万円だった。。。

当然、生活が厳しいものになった。

そこで生沼は、

毎日深夜1時半に起きて新聞配達をし、日中は自動車整備士の仕事をする毎日を送る。

当時、体力に自信があった生沼も、毎日3時間程度の睡眠で自分のことで精一杯、家族とのコミュニケーションもあまり取れず、奥さんとギクシャクしていく。

「長男が生まれ、とにかく稼がないと!と思い無我夢中でしたね。。。」

そんなある日、ディーラーの仕事でお客さんの車を引き取りに行った帰りに、居眠り運転して事故を起こしてしまう。

3台玉突きの事故だったにも拘らず、負傷者が出なかったことは不幸中の幸いだった。

さらに追い討ちをかけるように、長男が3歳の時に大病を患い、都内の大学病院に入院する日々が続く。

ますます生活がすれ違い、気持ちのすれ違いが続き、結局、6年で結婚生活に終止符が打たれた。

「お金と時間がない生活はつらかったが、何もかも失った時が1番つらかったですね。」

自分自身を責め、うつ状態になり本当に生きているのがつらい時期を1年ほど過ごした。

「日々施術していく中で、精神的に落ち込んでいる方が本当に多いと感じるんです。」と生沼は言う。

その度に、過去の自分を走馬灯のように思い出すという。

再出発

離婚後、6歳だった長男がバスが好きだったので、やることが見えなかった生沼は、バスの運転手になろうと決意する。

バスの免許取得後、大型トラックの運転手を1年経験したのち、路線バス、観光バスなど求人を探す中で、介護バスの求人が目にとまり、これからの時代を考え介護バスの運転手になった。

主な仕事は、介護施設でのデイサービスや、施設に泊まりに来る利用者の送迎。

日中は、デイサービスに来た利用者さんのお話し相手。

話し相手は苦手なことだった生沼、しかし、利用者のみなさんが優しく接してくれて、人に慣れていったのはこの頃からかもしれない。

そんな介護施設で仕事をしていたある日、白衣を着た先生が目に飛び込んできた。

利用者さんが嬉しそうにお礼を言って先生に頭を下げているのを見て衝撃が走る。

この光景が生沼が治療家を志すきっかけとなった。

30歳で治療家を目指す

「こんなわたしでも、人の役に立ちたい」
30歳、2度目の結婚と同時に国家資格である柔道整復師を目指し始めた。

柔道整復師の学校に入学すると、これまでの仕事は続けられない。

そこで生沼は、はりきゅう整骨院で見習いの仕事に就いた。

朝から夕方までは、はりきゅう整骨院で見習いをし、夕方からは専門学校で授業を受ける日々。

そんな3年間が始まった。

当時勤めていたはりきゅう整骨院は、診療時間前から外では行列ができ、オープンと同時に待合室がいっぱいになる。そんな整骨院だった。

毎日130名以上の患者さんをひたすら施術をする日々が続いた。

3年後、無事に柔道整復師の国家資格を取得。

その後、お礼奉公のため2年間勤めた生沼。

言い方は悪いが、嫌というほど人の体を触りまくった5年間であったと。。。

「間違いなくあの5年間が今の私の血肉になっていますね。
とにかく毎日、院内に入りきれないほどの患者さんの症状を全て把握できるようになっていましたからね。」

「さらに、5感をフルに使って目配り気配りできるようになったのもあの環境のおかげですね。」

「今は、おひとりずつ診ているので非常に楽ですね。」と笑って話す。

5年間で基礎をみっちり学んだ生沼が次にとった行動は整形外科だった。

生沼が所持する柔道整復師という資格は、本来、骨折・脱臼・打撲などケガに対して対処する資格だ。

しかし、全くと言っていいほど、骨折や脱臼の施術経験がなかったのだ。

整形外科に勤務して、ドクターの元で臨床の勉強がしたかった。

資格だけ持っていても、鑑別診断ができなければ意味がない。

生沼はそう考えていた。

35歳で整形外科への転職。

生沼が当時を振り返る。。。

「整形外科に転職した時、先輩の柔道整復師の先生が7人もいたんです。
しかも、全員わたしより年下でした(笑)」

「最初から診察室の担当にはなれなかったんですね。
2階のリハビリ室で、患者さんに治療器をつける担当でした。」

「そんなことは散々これまでやってきていたので、どうすれば診察室でドクターの近くで仕事ができるのかばかり考えていましたね。」

診察室で仕事できるのは、長く勤務しているスタッフだったのだ。

7人も先輩がいる中では、出番はなかなか回ってこないと生沼は焦った。

どうすれば、診察室で仕事ができるのか?
そう考えた生沼はまずはドクターに顔を憶えてもらうことから始めた。

昼休みにドクターの部屋へ行き、質問するようにしたのだ。

最初は、「自分で調べろ!」と厳しかったドクターも、諦めず課題を見つけ質問を繰り返すうちに徐々に話してくれるようになった。

そこから、徐々にドクターから調べ物を頼まれるようになった生沼。
ひたすら調べ物をしてドクターの期待に応えていった。

そんなある時、1人の先輩が退職することになった。

その先輩は週に1回、診察室を担当していた先輩だった。

これは、チャンス!!と思った生沼は、調べ物を報告するときにダメ元でお願いしてみた。

ドクターに顔を売っていたのと、頼まれごとをしていたのが幸いしたのか、生沼が退職した先輩のあとに診察室に週1回入ることができたのだ。

「ラッキーでしたね!」

「先輩方を追い越してわたしが診察室に入れたんですから。」

それから半年、気づけば週3回は診察室での勤務、週3回は提携しているはりきゅう整骨院での勤務になっていた。

診察室での主な仕事は、新規で来た患者さんの問診、検査をして電子カルテに情報を入力、レントゲンに回すこと。

骨折していたら骨を整復して元の状態に戻し、ギブス固定。脱臼していたら、整復して元の状態に戻す。

注射の準備、オペの補助など学びの多い日を過ごした。

診察室での仕事で、問診力や鑑別方法が身につき、レントゲンも見れるようになっていた。

さらに、ドクターがどんな診断をして、どんな対応をしているのかも勉強になった。

最前線で仕事をしたことで、飛躍的にスキルを身につけた生沼にさらにチャンスが巡ってきた。

当時、提携しているはりきゅう整骨院の経営がうまくいっていない状態だった。

その院長に変わって生沼に白羽の矢が立ったのだ。

ドクターいわく「あそこの整骨院は閉院予定だが、その前に1度経験しておくか?」とのことだった。

生沼は承諾する。

その時を振り返り生沼がこう話してくれた。

「当時、1日20名~30名ぐらいの患者さんでした。

ドクターは閉院するつもりでいたようですが、わたしはそんなつもりはありませんでしたね。」

そして・・・
生沼が院長に変わり快進撃が始まることになる。。。

1年後には、1日100名まで来院数が増えたのだ。

スタッフも2名から5名になり繁盛院に生まれ変わった。

ドクターからも信頼を勝ち取り、役員にも抜擢された。

しかし、公私ともに充実していた生沼に、忘れることができないできごとが巻き起こる。

父親に・・・

父親が66歳の時に肺ガンが見つかったのだ。しかもステージ4。

父親以外の家族が病院に呼ばれ、「治療しても1年、しなかったら半年でしょう」と無常の余命宣告。

それまで大きな病気がなかっただけに、家族全員のショックは計り知れないものだった。

「オヤジは手術ができない状態で、抗がん剤と放射線治療を受ける日々でした。徐々に髪は抜け、やせ細り、咳き込み、息苦しそうにしているのを見るのは本当につらい日々でした。」

父親はがんばって治療を受けてきたが・・・闘病生活約1年、67歳で旅立ってしまった。

「その時はすごくショックでしたよ。」

「まさかオヤジがあんなに早く逝ってしまうなんて・・・

それで、わたしは思ったんです。

オヤジは後悔しないで生涯を終えたのかなと・・・」

生沼はその頃、正直迷っていた。

このまま役員にまでなった整形外科で勤務していくのか?それとも開業して自分の道を進むのか?

「正直、当時楽しくはなかったんです。給料をもらうために仕事をしていた感じだったんで。」

「しかも、薬で何とかしようという西洋医学の考え方が好きになれなかった。」

「自分のやりたい施術で、自然治癒力を高めて地域のみなさんを元気にしたい、笑顔にしたいという強い想いがありましたから・・・」

多分、生沼は父親が病死しなかったら、あのまま整形外科で勤務していただろう。

しかし、生沼は父親の死を目の前にして死生観を学んだのだ。

1度しかない人生で、後悔しない生き方はどっちなのかをひたすら考えた。
考えて考えて1つの答えを出した。

それは、開業して挑戦する道であった。

しかも自費診療での開業。

保険診療なら、窓口負担が安く済むので比較的患者さんが来やすい。

それに対して自費診療は、施術の制限がないというメリットはあるものの、その分価値の見せ方が難しい。

会計が数千円を超えるからだ。

せめて自費と保険の両方にしてはという考えもよぎったが、生沼はそうはしなかった。

保険はケガに対する治療のみが対象だし、自費なら制限なくこれまで学んできた施術が自由にできる。

そう考えた生沼は、開業に向けてさまざまな施術法を学びに行った。

父親の死から約2年後・・・

その場しのぎの施術ではなく根本的に改善する施術を提供する!と決意し、

ハピエル整体院オープン。

生沼秀明、40歳のときである。

開業そしてどん底へ

期待と自信に溢れ2012年9月21日オープン!!

オープンと同時に患者数が増え、多くの方が生沼の施術に感動して・・・
そして現在に至る・・・

とは、残念ながらならなかった。。。

逆にオープンして2年後に店舗の更新料が払えず、店舗をたたむことに・・・

その時のことを、生沼はこう話す。

「いやあもう、最初の2年間はつらかったですね。今はよくわかるのですが、技術に自信がある治療家ほど『開業すれば患者数は自然と増える』って思っちゃうんですよね。」

「でも、そもそもわたしの存在を知らないんだから誰も来ない。特に最初の3ヶ月はひどいもんでした。」

来てくれれば、よさを知ってもらえて口コミしてくれる。そう思っていた。

しかし、来ない。

さすがに3ヶ月が過ぎると不安を覚えるようになってきた。

いつまでも貯金だけで暮らしていくわけにもいかず、資金面でもこのままではまずい。

いろんな思いと焦り、家族への申し訳ない気持ちなどが頭の中でグルグルと渦巻いた。

「なんでだ・・・」

焦りと不安だけが時間を奪うことになる。

そんなある日、同じ整体の学校を卒業した先生がポスティングをしている投稿をFacebookで偶然見かけた。

いてもたってもいられなかった生沼はすぐのその先生に連絡を取った。

その1つの行動が生沼の今後の人生を変えることになるとは、生沼はこの時、知るよしもなかった。

ただ、何としてもこの状況を変えたかった。
その思いだけが生沼を突き動かした。

その数ヶ月後、店舗の更新が待っていた。

この2年間で生沼は自信を完全に失っていた。

店舗をたたんだ生沼に残された道は、自宅でのベッド1つからの再出発だけであった。

ハピエル整体院から整体サロンハピエルに院名も変更した。

当時を振り返り、生沼は言う。

「自宅のリビングで施術をするのに、妻は猛反対でしたよ!しかし、お金がなかった。悔しいし情けないし、申し訳ないし、あの時は最悪の状況でしたね。崖っぷちってやつです。」

「ですが、少し前からマーケティングを学び始めていたので、教えてもらったことをひたすらやることだけを考えてましたね。もうそれしか残された道がなかったんです。」

患者さんは「家族」

生沼はマーケティングを教えてもらうと、猛烈な勢いでチラシをまいた。

「毎日、自転車で21時~3時ぐらいまで。配りまくりましたね。」

その効果は、幸いにもすぐに現れた。

魂を込めたチラシを見てくれた方が予約を入れてくれるようになり、患者数が増えていったのだ。

と同時に、唯一無二の「オイヌマ式整体法」を確立。

それから先の、整体サロンハピエルの繁盛ぶりは、わざわざ記すまでもないだろう。

自宅で再出発して約1年、住まいも兼ねていた自宅での施術だったので、どこか施術できる場所を探していた。

そんな時、たまたま双子の兄に紹介してもらった現在の場所で再々出発をしている。

「さすがに、妻や子供たちにも迷惑をかけていたので、よい場所が見つかってラッキーでした。兄にも感謝しています。」

「わたしはこの場所が大好きです。」

あれから4年・・・

今では施術の傍ら、地域の方への恩返しや以前の生沼のように経営に困っている全国の先生に経営のアドバイスも行なっている。

「地元の方へ何かお役にたてれば嬉しいですね。」それと「東洋医学を広めたいんですよ。技術はあるのに経営・マーケティングを知らないで、以前のわたしのように苦労している先生を救いたいんです。それも使命の1つですね。」

「それと患者さんはね、家族なんですよ。」と生沼は最高の笑顔で言う。

「患者さんが上とか、わたしが上とか関係なく、1対1の人として向き合っています。まあ、言いたいこと言ってますけどね(笑)。楽しみにして施術を受けに来てくれるし、わたしも楽しい。本当に素晴らしい方たちに恵まれて幸せ者です。」

「これからも、恩返しをしていきたいですね。わたしができる恩返しは、健康な体を維持してもらうこと。だけではなく、その人の人生をゆたかにすることであり、一番、患者さんに必要なことだと思います。」

「わたしは越谷市で育ち、お世話になってきました。その分・・というわけではありませんが、地域貢献して患者さんの人生を、ずーっとサポートしたいと思っています。」

患者さんは「家族」という生沼。

家に帰れば本当の家族、奥さんと2人のお子さんがいる。

家族のために仕事に燃え、毎日がんばっている一方で、「家族」という患者さんたちの人生をサポートすることを生業としている。

「改めて考えてみれば 、わたしは家に帰ってもサロンに来ても「家族」に囲まれているんだなとつくづく思う。そして、それがとても幸せなことだと日々かみしめています。」

今日も痛みで悩んでいる新しい患者さんが、整体サロンハピエルの扉を開く。

それを生沼が、最高の笑顔で迎える。

患者さんは生沼を目の前にして、笑顔を返しながらも戸惑いを隠せない。

「今日からこの方との人生が始まるんだな」と、生沼はワクワクしている。

不安を笑顔に変えるのは、生沼の得意技だ。

今日、来週、そして1ヶ月後。。。

この患者さんはきっと生沼にこう言っているだろう。

「先生に出会えて本当によかった!」

「毎日が前向きになり楽しいです!!」

これを読んでいるあなたも、「私もこんなふうに『人生がよくなった!』って思いたいな」と感じたなら、整体サロンハピエルをぜひ訪ねてほしい。

常に新しいことにチャレンジしては失敗している生沼という治療家に会ってほしい。

きっとあなたの悩みは、間もなく笑顔に変わり、解消されるだろうから。。。


ざまざまな社会活動にも積極的に取り組んでいます

技術講師活動

首肩コリを撲滅したい!

ネイリストや美容師、エステサロンなどの他業種でご活躍のオーナーさんやスタッフさんに首肩をメインにした技術指導も行っています。

<治療院・サロン経営者向けセミナー>

これまでの失敗続きだった治療院経営の経験をいかして、オンラインで経営についての講座や相談を行ない、技術はあるが地域にはまだ認知されていない全国の先生にマンツーマンで経営のアドバイスも行っています。

地域の方やオンラインでの食育活動

「食べたもので体はできている」
これは、長く健康業界に携わり導き出した1つの答えです。
「食育」をアドバイスすることで、生活習慣病の予防するための活動も行っています。